自己紹介を兼ねて、わたしの話を(ちょい長め)
プロモーション・企画・デザイン・本の出版などの仕事をしております。
菅野 千恵(かんのちえ)と申します。
あだ名がありまして、「チェカンノ」と呼ばれております。
変な語呂合わせですが、フルネームを「名前」「苗字」の順番で入れ替えて読んだだけの大変シンプルなあだ名です。
お時間取らせるのも大変恐縮なのですが、
自己紹介も兼ねて、わたしの話をさせて頂こうと思います。
お時間がある方は、どうぞ、お付き合いください
仕事とは全く関係ないわたしの話です。
好きなことしかできなかった幼少時代
今こそ、ある程度誰とでもお話しすることが可能ですが、幼少時代は人見知りがひどい少女でした。
親戚の集まりがあると、借りてきた猫のように端っこから人数の多い空間を盗み見るのが通常運転。
いとこに「ひろみちゃん(仮名)」の大変活発で可愛がられる3つ違いの子がいたのですが、私は親戚に懐かないので、まったく可愛がられず過ごしました。両親にすら少し距離をおいていたような、「ちょっと気難しい」子供でした。
好きなことを馬鹿にされながらも、好きなことがやめられない
人見知りがひどい子供でしたので、なかなか友達ができませんでした。
そんな私を孤独から救い出してくれたのが「漫画」です。
私は小学校1年生の時にお小遣いをもらうようになり、1ヶ月500円もらえるお小遣いを全て「りぼん」に捧げていました。
そして、「りぼんの漫画賞に応募してプロの漫画家になりたい。できれば最年少で」という密かな野望がありました。
そんな中、父親の海外転機が決まり、私は「りぼんで最年少デビュー」するつもりだったのに、泣く泣く父親について海外に行くことになりました。行き先はマレーシア。
旅立つ時にクラスメイトにもらった色紙には「ちえちゃんアメリカにいっても頑張ってね」ってかいてありました。
いや、知らんよね、マレーシア。私も地球儀見てはじめて知ったもの・・・・
マレーシアでは、「ジャパンクラブ」という場所があって、そこでは「日本の漫画」のレンタルが行われていました。
私は、この天国のような環境を利用し、ここでかなりの量の漫画を読みました。
毎月、毎月何十冊という量の漫画を読んでいたと思います。
国境を超えてもなお、漫画漬けになった私は、ついに自分で漫画を描き始めました。
嬉しいことに私には読者がいたのです。クラスメイトの「ちはるちゃん(仮)」です。
今思うと、コミュニケーションを取るのが苦手な私と他人を「漫画」がつなげてくれたのだと思います。
彼女が楽しみに待ってくれていたことが、喜んで私の作品を読んでくれたことが、私が創作を続けられた源泉だと思います。
彼女がいなかったら楽しく漫画を書いていなかったでしょう。
ありがとう、ちはるちゃん。元気でやってるかな?
私は頭がわるいのだ、と気づく
マレーシアでは大分良い暮らしをさせていただいたと思います。
今はすっかり都会のマレーシアですが、当時は「発展途上国」だったので、物価が安いこともあり、
年間3回は海外旅行などにも行き、ほぼ外食ですごすといういわゆる「お嬢様」な暮らしを3年間していたのです。
両親も楽しそうでした。
あんなに仲の良い両親を見たのはマレーシアにいる間だけでした。
「お金って人を幸せにするんだな」と潜在的に気づいたのもこの時の経験があったからかなぁと思います。
(もちろん、人を幸せにするのはお金だけではないですけれども)
そんなこんなで楽しいマレーシアライフを過ごしたわけですが、
私は自分の勉強ができませんでした。
(それ以前にやってなかった・・・授業もろくろく聞いてねぇ)
あまりにもナチュラルに勉強しないので、「気づいてなかった」というのが正しかったのかもしれません。
思い返せば、同級生は「学習院小学校」とか「慶應義塾横浜初等部」とか、
今思うと大変優秀な学校から転校してきた同級生だったのです。
そりゃぁ勉強が出来る生徒が多ければ授業のスピードもそっちにあわせますよね。
あまりにもテストの点が悪くて、心配になった担任の平松先生(仮)に「菅野、大丈夫か?」と聞かれ、
恥ずかしさのあまり「大丈夫です」と答えたのもいい思い出です。
あの時素直に「全然ついていけてません」と言えていたら私の人生は変わっていたでしょう。
そんなこんなで、取り返しがつかないくらい、勉強ができないまま私は日本に戻ってきました。
親の希望を叶えたくなく、勉強しない日々
帰国後、地元の学校に通いました。相変わらず漫画ばかり描いていました。
やっと帰国できたので、念願の「りぼん」の漫画賞出しました。
しかし、箸にも棒にもかからないにもかかりませんでした。
投稿したのはこれっきりで、あっという間に漫画家は諦めました。
部活は、全く興味はありませんでしたが、部活は家にグローブがあったから、という理由で「ソフトボール部」へ入りました。
私の中学ではなぜか「運動部になるべく入りなさい」という縛りがあったのです。
身体的才能があるタイプでもなく、やる気もなかったので、もちろん上手くなることはありませんでした。
時々ふらっと来る熱血コーチの指導が辛かったです。私はやる気なかったので…(あの方ボランティアだったのだろうか)
勉強はほとんどしませんでした。
嫌いとか、好きとかは別になく、理由としては「親の希望を叶えない為」です。
親の希望は「家から近い進学校の高校に合格して、国立大学に入り、「先生」になって欲しい」
でも、私の夢は「絵の仕事」そんな進路に進んだら、私の夢は叶わなくなってしまう!!
そうして、私が選んだ道は「勉強しない」でした。
勉強しなければ、親の希望の高校に行けないし、もちろん大学にもいけないからです。
めちゃくちゃ捻くれてますね!!
幸か不幸か中学でも心配されるほど成績が悪かったのですが、相当運が良かったらしく、学力中ぐらいのくらいの県立高校に合格しました。
高校入学、そして、なぜか演劇部へ
高校に入学して、私はなぜか演劇部に入りました。多分、小学生の時に読んだ「ガラスの仮面」という漫画の影響だと思います。
美術部に入って絵を描くことも考えたのですが、演劇部の方にどうしても心惹かれてしまい、演劇部に入ることになりました。
クラスメイトにものすごく絵が上手い子が居て、私はその子とどうしても仲良くなりたくて猛アタックしました。
学校で会っているのに、毎日電話もしていました。
私はその子から「同人誌即売会」という存在を知り、同人誌を創作作ることになりました。
高校生活は、演劇と同人活動に全てを捧げることになります。
幸か不幸か結構熱血な演劇部だったので、青春の日々を送らせていただきました。
なぜか部長に推薦され、部費が年間3万円だったのにも関わらず(学校が予算くれない弱小部活)、
関東大会出場という快挙を成し遂げました。
ただ、私はほぼ何もしておらず、気づいたら関東大会まで行っていました。
思い返せば、当時のメンバーは人間的にも素敵な子ばかりで、皆さん優秀でした。
そして、部活の傍ら「同人誌活動」の方も同時に頑張っており、
そこで私はコンビニのコピー機を使って毎月毎月本を作る、という創作活動を行っていました。
正直なところ、本は全く売れませんでしたが、友達はたくさんできました。
毎月毎月どうしてあんなに書くことができたのだろうと今思うと不思議です。
そして、勉強を全くしなかった私は、大学進学は予定通りできませんでした。
少しでも絵がかける仕事をしたい、という私に親は猛反対しましたが、
なんとか説得し、「県内の専門学校」に行くことになりました。
専門学校で絶望する
そんなこんなで、私は地元のデザインの専門学校に進学します。
「東京には行かせない」という両親を説得できず、説得するほど自分に情熱もなく、
なんの夢もビジョンもないまま地元でデザインを学ぶことになりました。
同じ科のメンバーは20人ほどでしたが、ここで私は大きく絶望しました。
私以外、天才的に絵が上手かったのです。
私の絵はみそっかすでした。
地元でこのレベルかよ…東京に行かなくてマジで良かったと思いました。
実力を思い知った私は、
「夢を見るのはやめよう。できる仕事をやろう、でもせめて、なるべく絵と関われる仕事を」と思いました。
努力してないのだから、仕方ないのですけれど。
でも私はそれでも、ちょっとだけ夢を見ることにしました。
多分、全部は叶わないから。
東京に行かなかった分、好きなことをしよう、と思い、地元の劇団にも入りました。
東京に進学した子は趣味なんてやる時間がなかったのを知っていたからです。
私は全部夢を叶える、ということは早々に諦めたけれど
「少しだけやりたいことに近いことをやる」ということで夢を叶えていたような気がします。
就職氷河期
専門学校の先生の導きで
「新卒は役に立たないから5年ぐらい修行した方がいい」
「デザイン事務所は即戦力しか雇ってくれないから、印刷屋さんに初めは就職した方がいい」
というアドバイスを受け、私は印刷屋さんの就職試験を受けることにしました。
しかし、ちょうど、私の就職時期は「就職氷河期」と言われる時代の真っ只中でした。
・そもそも新規の募集がされていない
・受けてもほぼほぼ受からない
という中の就職活動でした。
結構沢山見学に行ったり、試験を受けたりして落ちました。
息抜きで行ったファミリーレストランの会社説明会に感動して(そっちの方が入りやすそうなのもあって)親に
「ファミレスに就職しようかな・・・」
と、ぼやいたら
「バカ!!!専門学校言ったんだから専門職に就職しろ!」と一蹴されたので気合が入り、
その後なんとか印刷屋さんの内定をいただくことが出来ました。
私よりずっとずっと絵が上手で、才能のある同級生の内定が卒業まで決まらなかったりして、
入学当時「才能がない」と絶望していた側の私が内定をもらっているのが不思議でした。
長時間労働が当たり前の会社へ
しかし、苦労して内定をもらった就職先は、長時間労働、残業はあたりまえ、
勤務時間は夜中12時を回る日も多く、くたくたでした。
激務でしたが、劇団活動は続けていて、仕事が終わった後、休日は全て演劇活動をしていました。
仕事と演劇、家には寝に帰るだけの生活を5年間続けていました。
仕事がちっとも好きではなかったので、演劇ばかり頑張っていました。
早く帰りたかったので、制作のスピードがめちゃくちゃ速くなりました。
でも、スピード重視なので質を求めることはしませんでした。
私は、早く帰りたかっただけなので…。
すごく浅はかで恥ずかしいのですが、
趣味で演劇をやっていると、「お仕事はなんですが?」と聞かれることがあるのです。
その時に「デザインの仕事をやっています」というと、すごく羨ましがられるので、多分そのために仕事を続けていたのではないかなぁ・・と思うのです。
その時の私はデザインの仕事よりも演劇の方が好きだったのですが、演劇はあくまで趣味でした。
それくらい演劇は一生懸命やっていました。(全く金にならないのに!)
でも、忙しい日々もいつか終わるものです。
5年を過ぎたとき、私は会社を辞めました。
転職を考えた時に自分にある資格は免許証だけだったことに気づく
「きついだけのこの業界は絶対に辞める」と、心に誓い、就職活動を始めましたが、私にはまた壁が待ち受けていました。
「大学に行っていない、大した資格も持っていない」私にとって、再就職で有効だったのは「運転免許証」だけだったのです。
一人暮らしだったのである程度の給与を確保する必要もありました。
選択の時でした。
お金のために、「同じ業界」にもう一度転職するか、車の免許が有効な「営業職」にするか。
そこで、私は当時話題になっていた「派遣の営業」の仕事にチャレンジしてみることにしました。
せっかく辞めたのだし、新しい仕事をしてみようかと思ったのです。
訳がわからず、ベンチャー企業に就職
就職面接を受けたのは、小さな派遣会社でした。古い雑居ビルのベンチャー。
社員が50人、と求人票には書いてあるのに、会社は6条ぐらいの一部屋のオフィスで、社長一人しかいない。
正直なところ怪しい会社でした。
面接は社長がやってくれました。
質問に対して私はしどろもどろで、正直面接の出来は最悪でした。
しかし、とんとん拍子に就職は決まって、私はここで働くことになりました。
面接がぐだぐだだったのに、なぜ大丈夫だったのかが謎でしたが、入社してから理由がわかりました。
社長と母校の専門学校の先生が元々知り合いで、事前に情報をもらっていたそうなのです。
「菅野さん、いい子ですよ」と答えてくれたのが決め手だったのだそう。
こんなところで、地元出身が生きるとは思いませんでした。
妥協して決めた専門学校だったけど、人生なにがあるかわかりません。
就職先は「自由」な代わりに「責任」がある環境だった
就職して一番先に社長に言われたのが、
「菅野さん、これから3ヶ月であなたの3倍の仕事をとってきてください。でないとあなた3ヶ月後、クビね!」
社長は爽やかにそう言い放ちました。
「やばい!!家賃が払えなくなる!!!」
と怯える私は必死で働いて仕事を取りました。
やべえ・・・クビになる・・・
3ヶ月後、なんとか目標に届いていたらしく、私はクビにならずに済みました。
私は、この転職先の会社で今までの働き方と真逆の概念、あと派遣の営業という仕事を通して他社さんの社長さんとたくさんお話しする機会を得ることができました。この会社には5年ほど勤めさせていただきましたが、本当にたくさん、勉強させていただいたと思います。
そして、新しい会社に転職することによって、昔「ブラック企業」だと思って働いていた会社がどれだけ社員の為に頑張ってくれていたのかも客観的に知ることができたのです。
私がどれだけものを知らなかったのか、思い知らされました。
転職してもデザイン業務に携わる
「菅野さん、デザインできるんでしょ?パンフレット作ってよ」
デザインのお仕事を頼まれました。
2度と仕事でやることがないと思っていたのに、あっけなく私は仕事で自分の経歴を使うことになります。
家にあったMACを引っ張り出して、転職先のパンフレットから印刷手配まで全てひとりで行いました。
「才能がない」と思いながら続けていた仕事でしたが、
「この程度の実力でも役に立てるんだな」と思えた瞬間でした。
逃げても逃げても追いかけてくるデザインの仕事に、「私はこれをやるしかないのだな」と思いました。
そうして、同じ会社の系列のWEBの仕事もやることになります。
私はそうして、派遣会社の営業、として就職したはずなのに、またデザインの仕事に戻ってきたのです。
そして、独立して10年目を迎えることができました。
派遣という仕事を通じて、「女性が仕事をもち、結婚後も働くこと」自体にすごくハードルがある、ということを知りました。
そして、会社というものに属さないで働いてみたいと思い、2014年に独立しました。
幸いにも私がいた会社は、
「独立大歓迎、独立できるぐらいの能力がないと仕事を渡せない」という方針だったので、
独立にも非常に協力的でした。
「もう2度と就職しない」
そう誓って、現在に至ります。
個人事業主として開業した人の約4割が1年以内に廃業し、2年で約半数、10年後まで生き残れる方はたった1割、と言われています。
そんな中10年目を迎えられています。
2023年に法人化しました。
2011年の事業立ち上げからずっと一緒に仕事をやっていたメンバーとの独立です。
「これからの会社は女性が社長の方がいい」とのことで、私が代表を務めることになりました。
当社を頼ってきていただけるクライアントの皆さまのお役に立てるよう精進していきます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。